プロフィール Profile

プロフィール概略

片岡亮太 Ryota Kataoka

ランディングページ専門Webデザイナー

1986年12月生まれ。北海道札幌育ち。東京都在住。
早稲田大学教育学部社会学科社会科学専修卒業(社会学専攻)。

国内農産物流通会社のサラリーマン、またベルギービール専門店のマネージャーなどの仕事を経て、ランディングページ専門のWebデザイナーとして2014年春にフリーランスのWebデザイナーとして独立・起業。

クライアントの新規集客からデザイン・コーディングまでを一貫して個人で実践することで、旧来のWebデザイナーという職業の枠を超えた「デザインマーケター」として活動中。

ネットビジネス業界の著名人や中小企業など、今まで担当した300を超える案件の中から、デザインとマーケティングという異世界の文法をつなぎ合わせる独自の『デザインマーケティング理論』を提唱。

趣味は旅行、読書、料理、写真。
旅行は日本全国完全制覇&世界20ヶ国周遊の経験あり。
好きなものは村上春樹、スガシカオなど。

片岡亮太がLP専門のWebデザイナーになるまでの道のり

はじめに

私は普通のWebデザイナーとは異なり、美大出身でもなければ、Web関連の専門学校に通ったわけではありません。でも、こうしてフリーランスとして活動することができている理由として、大学受験やサラリーマン時代に数々の経験をしてきたことが挙げられます。

実際にクライアントさんとお話をしていると、私の人生そのものに興味を抱いてくれて、それをきっかけに一緒にお仕事をさせて頂く機会につながったりしています。「片岡くんの人生に興味があって、仕事を頼んだんだ」そう言ってもらえると、とても嬉しい気持ちになります。

そこで、このページでは自分の半生について一度振り返ってみることにしました。

1986〜1998年 「誕生。そして自然と触れ合い続ける子供時代。」

1986年12月17日北海道札幌市で生まれる。家が転勤族であったため、幼少時代を北海道の各地を移りながら過ごす。物心ついた時は、北海道留萌市に在住。玄関のドアを開けると水平線の向こう側に海が広がる場所に住んでいた。

小学校に入ると、毎日放課後に自転車に乗って丘の上の公園に行ったり、トンボをたくさん捕まえたりした。想像を絶するほどの雪が降る地域だったので、毎冬父親に大きなかまくらを作ってもらって遊んでいた。落ち着きのなさが原因で、遠足の時に頭に7針を縫うケガをしたのも今となってはいい思い出である。

両親が無類のアウトドア好きで、毎週のようにキャンプに行き、星空を見ながら遊び、眠った。カヌーに乗って2日間かけて川下りをした。

留萌にはオホーツク海に面した大きな港があり、東京にいると考えられないくらいの新鮮な海産物にありつけた。そんな風に、あの頃は常に自然と隣り合わせだった。今クリエイティブな仕事をしているのも、こうした自然の景色やニオイなどが非常に大きな影響を与えていると個人的に思っている。

1999〜2001年 「サッカーの勝負の世界に没頭する。」

中学時代は、ひたすらサッカーの部活に熱中した。もともと運動神経はそこそこあったが、サッカーは初めての経験。

スタミナに自信はなかったが、反射神経には自信があったので、自ら志願してゴールキーパーになった。当時はフランスワールドカップの頃で、川口がとても好きだったからだ。小学校からサッカーを経験している同級生に追いつくべく、毎日来る日も来る日もボールを蹴っていた。勉強の方は全然ダメというわけでもないし、特別優秀だということもなく、成績に至ってはごく平凡だった。

2年生の秋にレギュラーになり、多くの試合に出場することになった。自分の強みとして磨いたのは、コーチングである。

中学校のゴールキーパーというのは、なかなかフィールド全体を見渡して、大きな声で指示を選手が少なかった。味方が走り回って息切れしているつらい瞬間だからこそ、ゴールキーパーのモチベーションを上げる掛け声は非常に重要だし、それが試合の結果を左右することもある。戦術や歴史に関しても、当時のサッカー本を買いあさり研究を重ね、毎週末の深夜は中田英寿のペルージャ戦を食い入るように観ていた。地元のコンサドーレ札幌の試合も何度も観戦しにいった。それぐらい、サッカーに熱中していた。

ある地区予選の準決勝で延長Vゴールで勝利した時の希望、そして決勝戦でVゴール負けを受け敗退した時の絶望は、今でも生々しく思い出せるほど自分の身体に刻み込まれている。

どんな勝負の世界にも、必ず勝ち負けがあって、最終的に人はどのような結果でも受け入れなければいけない。そして何でも死ぬ気でやれば、たとえ勝負に負けても泣くことはない。負けて泣くのは、自分がどこかで手を抜いていたからだ。そんな大人になったら当たり前の現実を、私は14歳の夏に学んだ。

2002〜2004年 「多様な価値観の中の高校時代。」

サッカーに熱中していたせいで、勉強がおぼつかなく、結局第2志望の私立高校に通い始めた。北海道は関東とは異なり、私立よりも公立の方がエリートコースだと言われているのだ。

公立高校に合格する可能性もあったが、あえなく不合格となり、少し微妙な気持ちで高校に通い始めた。でも、そんな悔しさはすぐに吹き飛んだ。

高校は、私にとってものすごく楽しい空間だった。もちろん誰かと喧嘩したこともあったし、自分の思い通りにならないこともたくさんあった。

でもそんなものは大人になってみればどれも可愛い事件で、全体を改めて振り返ってみると毎日笑っていた記憶しかない。私の通っていた高校は、北海道全域から生徒が集まってくる学校で、鳥肌が立つようなエリート意識もなければ、他人を判断する際の固定観念もない人々の集まりだった。あらゆる価値観が共有されていて、成績が悪い=ダメ人間というよくありがちな図式が存在しない世界だった

たとえ学校の成績がいくら悪くても、ピアノやギターがものすごく上手だったり、絵のコンクールで金賞を取ったり、常に人を笑わせる秀逸なギャグセンスがあったり、ダンスを人に教えることが抜群にうまい生徒もいた。

そこにいる誰もが、まるで何かに抗うように、個性的に、そしてクリエイティブに生きていた。もちろん彼らには彼らなりの悩みがあったのだろうが、偏差値だけで人を判断する学歴社会が存在することに、特に興味を示していないようだった。

「人には、その人にしか持っていない素質があり、それは実に尊い。でも、多くの人はそれに気がつかないし、ましてや知らない間に捨ててしまうこともある」と私は高校時代に身をもって学ぶことになった。

この体験は、私がその後に会社を辞めることにも確実につながっている。「ひとつの価値観に縛られた集団の中にいても、新しく自由なものは何も生まれない」と、私はすでに17歳の夏に気がついていたのだ。

2004年 「人生をかけて戦った大学受験。」

でも、そんな楽しい高校生活の中で、私は毎日受験勉強に励んだ。ヘルニアになりサッカー部を辞めた後、私が熱中したのは「受験勉強」だった。

その頃は、とにかく東京に行きたい気持ちが強かったこともあり、早慶上智レベルに合格すれば親も納得して上京を許してくれると思ったからだ。

だから選んだ教科は、英語・国語・日本史の3つ。センター試験対策とか、自分にとっては無駄な勉強はすべて省き、合格するためだけに合理的な学習をするようにした。目指した大学は、早稲田大学である。

高校1年生の終わり頃から、まず個人の家庭教師について徹底的に「受験英語」を勉強した。Z会の速読英単語を基礎篇&上級編とも頭に詰め込み、3ヶ月間で英語の文法を全部押さえた。

日本史の参考書をひたすら買い込み、2年生の夏まで全時代を把握し、残りの1年以上を復習に費やすことにした。国語に関しては、代ゼミの早大現代文を受講し、徹底的に文章の構造をマーカーを使って解体する作業を続けた。それだけ勉強に時間を費やすと、もちろん自然と学校の成績も上がる。当初は200番辺りを彷徨っていた順位も、次の年には学内トップ10入りすることになった。特に日本史が得意で、偏差値は常に70超えをしていた。

この頃は、夜12時に寝て、朝3時に起きて勉強するということをしていた。仮眠は全部学校の授業中にした。これは実際自分が体験したことだが、ある程度何らかの形で学力を示し続けていると、あまり教師の風当たりは強くない。

多少生活バランスの崩れた生活をしていても、親は優しく見守ってくれる。友達もたくさんのエールを送ってくれる。そんな感じで私は無我夢中で受験勉強を続け、結果的に法政と青学、早稲田大学に現役合格することができた。

「不器用な人間ほど、一点集中しないと道は拓かれない」という教訓を私は受験時代に学んだ。

いつまでも結果が出せない人間というのは、意識があらゆることに分散していて、結局ひとつの物事に集中できていないのだ。私の同級生には、早稲田に行きたいといいつつ、保険のためにセンター試験の勉強をしていた。どの学校にもひとりぐらいいる天才ならともかく、普通の人間にとってそれで難関大学の合格を勝ち取るのは難しいのだ。

自分で決めた目標を、自分のロジックで計画を立てて実行し、結果を勝ち取る。

人生においてこういった経験をできるのは、受験勉強以外にあまりないのではと思うぐらい、私にとっては大変だけれど、実にいい時代だった。

2005〜2009年 「人生最大の挫折と復活を味わった大学時代。」

しかし、私はここで10代最大の挫折を経験する。

早稲田大学に入って「やりたいことが全くなかった」のである。

受験という目標を達成したのはいいが、結局のところ大学に入って何をしたいのか、何も考えてこなかったのである。

そして、高校時代に多様な価値観に触れて育っていたのもあり、周りにいる1年生の春から公務員や弁護士を目指しているエリート意識の高い人達とも、全く仲良くなれなかった。とある先輩に「エリートじゃないと人間じゃないしょ」と真顔で言われたのは今でも覚えている。

そういった人たちが正解なのか間違っているのかは別として、私は彼らと一緒にいても何も楽しくなかったし、ワクワクすることもなかった。

うわべだけの人間関係や、一期一会の出会いだけで過ぎていく生活がとても辛かった。自分には自分のシステムがあって、相手には相手のシステムがある。それは絶対に深く触れ合うことはない。

19歳の頃、そんな風に世の中に対して私は卑屈の闇にはまっていた。どちらに行けば、自分の思い描いた未来が待っているのか、全くわからなかった。19歳は若くて尊い年齢だと思うけど、あんな場所には絶対に戻りたくない。

でも、そんなつまらない生活を送っている原因は、私自身の中にあるということに薄々と気がついていた。

「大学なんてどうでもいいんだよ。お前がつまらないのは、お前のせいだ。」

結局、当時の自分には熱中できる趣味もないし、誰かに熱く語ることのできるテーマもない。人に興味を持ってもらえる何かを持っていないのである。

そして、そういう人間には、類は友を呼ぶじゃないけれど、同じようにつまらない人間が集まってくる。惰性で生きている人間には、惰性で生きている人間しか集まってこないのだ。

そして、私は20歳になった時、大学時代になってからの中途半端な人間関係を全てリセットすることにした。携帯を捨てて、SNSは全部退会した。

そして次に考えたのが、「自分の行きたい場所」をすべてリストアップすることだった。「ここではないどこかに行けば、いつかは自分のやりたいことがわかるはず」とそう信じていた。“ひとりでどこでも行ける精神”があれば、この先何があっても突き進んでいけるという確信があった。

退屈な大学の授業を訓練だと思って受けながら、私はひとりでたくさんの街を歩き始めた。

デジカメを片手に、自分が気になった風景をひたすら撮影した。素敵だと思ったカフェにも入って、インテリアやメニューなどを細かく研究した。とにかく街を歩いて、自分の感性に合うものを徹底的に探し当て、それを追求していった。誰に何も言われなくても、自分の無意識の中に心を震わせるものが存在していることに気がついたのも、この頃である。

行動するための資金は、全部大学の近くにある本屋のアルバイトに週5入って稼いだ。月10〜15万程度の収入ではあったが、仕送りと合わせると学生には十分すぎるほどで、その環境をひたすら利用して私はあらゆる経験を積み重ねていくことになった。深夜バスに飛び乗って誰も知らない地方の街で朝を迎えたり、青春18切符を使って気が遠くなるほど電車に揺られたりした。

そんな中で、ここで私の人生を変えた衝撃的な出会いがあった。

「ベルギービール」である。

20歳の終わり頃、新宿西口のとあるベルギービール屋で初めて飲んだ「ロッシュフォール8」の味と香りに驚愕し、これはやばいと思った。

そして私は次の週には貯金を切り崩して飛行機のチケットを買った。ヨーロッパを1ヶ月周遊しながらベルギーにビールを飲みに行く一人旅の計画を立てた。迷いもなく不安もなく、正直なところとてもワクワクしていた。ブリュッセルに着いて、中央駅近くのファルスタッフというレストランで「ウエストマールトリプル」を飲んだ時、まさに自分の人生を自分で生きているという実感が湧いた。

19歳の頃の、中途半端で大嫌いな自分はもうすでにいなくなっていた。そしてヨーロッパから帰った後は、原宿にあったベルギービールバーでアルバイトを始めて、カウンター越しにたくさんのお客さんと話をする機会にも恵まれた。

大学に入った当初、何も持っていなかった自分が、徹底的に自分と向き合い感性に合った行動をし続けることで、閉塞感をぶち破ることができた。

これは人生において、とても画期的な瞬間だった。常に自分の直観に正直になっていれば、大抵のことはうまくいくし、こんなにも感動する時が待っている。あれほどできなかった友達も、国籍関係なく旅先で出会った人を含めて大学の外にたくさんできたし、自分の興味・関心がある人たちととても楽しい時間を過ごすことができるようになった。

そして私はその後も大学に通いながら、時間を見つけては旅に出続けることになる。ベルギービールによって目覚めた「食」の面白さが、今度は日本のB級グルメやローカルフードへの興味に移行した。

最終的に私はすべての都道府県を制覇して、その土地にしかないものをたくさん食べ物を食べてきた。大学の卒業論文は、それまで食べてきた80種類以上のご当地ラーメンから20種類ほどピックアップし、それが地域活性化とどのように結びついているのかを研究してまとめた。自分のゼミは教授が面倒臭がって卒論をチェックしなかったので(早稲田なんてそんなもの)、事務所に卒論を提出して「お疲れ様です。これで卒業です」と言われ、私は無事に大学を卒業することができた。卒業式も出なかった。

就職活動は、もっぱら自分の興味のある分野に絞った。「食」と「農」である。食べることが大好きだったから、自分で料理もたくさんしたし(レパートリー300以上)、その食をもたらしてくれる「農」の世界にも非常に魅力を感じていた。農業を通じて、日本を盛り上げていきたい。そんなことを真剣に考えていた。

そして結局内定をもらったのは、関東では割と大きな農産物流通会社だった。年間100億ほどの青果物の流通管理をする会社だ。

大学時代、私は自分の信念を貫き続けることで、人生を切り拓けると理解していたので、社会人になって会社で働き始めたら、志高くもっと自分の感性を磨いて成長していこうと思っていた。「食」の仕事に対して、自分の理念をもって取り組むことを決意しつつ、めでたく社会人になったのである。

2010〜2012年 「社会人として信念を貫くことの難しさ。」

社会に出て待っていたのは、人生で2回目の大きな挫折だった。

任された仕事は、何百トンにも及ぶ大量の野菜を、60万人に届ける指示・管理をする仕事だった。

自分の発注ミスで1000個の白菜が不足したり、台風が来てレタスが5000個足りなくなったり、トマトが青いまま届いて100kg廃棄処分をするといった、食べ物という生き物を扱うがゆえの、常にトラブルと隣り合わせの仕事だった。

埼玉のパッケージセンターで作業をして、関東全域に配送していたので、横須賀や千葉の館山なんかで問題が起こると、夜12時に車に野菜を詰め込んで直接届け、また朝6時に戻ってそのまま眠らずに仕事を続けた。

いくら志が高くても、基本的には深夜1時に帰宅し、朝6時に会社にいくような仕事を続けていると、大抵の人間は精神的にキツくなってくる。入社して数ヶ月目で、残業が月120時間を超えた辺りから、私が大学時代に築き上げたライフスタイルは完全に崩壊した。学生時代は自炊にこだわっていたが、面倒なのでファミレスやらカップラーメンが中心の食生活になった。

自分の食生活にこだわると、逆につらくなるだけだからだ。結局帰って寝るだけなので、プライベートの過ごし方などどうでもよくなった。でも、どうしても会社を辞める勇気は湧かなかった。会社を辞めたところで、食べていくことができないと思っていたからだ。

そして日々の弾力が失われ、形骸化していく生活の中で、あの震災がやってきた。

日本中の野菜が蝕まれ、様々な憶測と過剰な風評被害が溢れた。机の上の書類の文言が全部「ベクレル」になった。

福島の農家と電話で話して、自分も相手も現実に対して無力すぎて受話器越しに二人で泣いた。震災の影響でストップしていた北海道の30トンのジャガイモが、倉庫に入りきらず、全部外に置いて雨に濡れて腐った。

計画停電によって出荷場のベルトコンベアが完全に停止し、1億円以上の野菜が暗闇に葬り去られた。食べ物に関するあらゆる物事が混乱していた。その混乱が落ち着いてくると、スーパーに行って野菜を見るだけで仕事のミスや失態を思い出して吐き気がした。

震災が起きた年の秋、私は「もう限界だ」という結論に到達した。

そしてもう一度、自分が大切にしていたものを思い出そうと思い、私は学生時代にお世話になったベルギービールバーの店長に連絡をした。

「もう一度アルバイトさせてくれないか?」と。結果として、最初の会社は2年間務めて辞めることになった。これは「食」を追求しようと入社した自分にとって、ひとつの挫折でもあったし、自分の本当にやりたいことを突き詰めるための希望でもあった。

「好きなことで仕事をするなら、規模の大きな組織は向かない」

巷でよく言われていることを理解するのに、私は2年間もかかったのである。

だが、この時のサラリーマン時代の経験は今のフリーランスの生活に非常に役立っているし、無駄だったとはひとつも思わない。戻りたくはないが、今でもこの時期に出会った全ての人達に感謝をしている。

もっともっと、自分の想いや熱意を直接お客さんに伝わるような仕事しよう。

そう結論を下し、次に選んだのが、ベルギービールバーでの接客業である。

2012〜2013年 「カウンター越しに積み重ねた人間関係。」

無事に転職活動が終わり、かつてアルバイトとして勤務していた原宿のベルギービールバーで社会人としての再スタートを図ることになった。

この仕事を始める前に、有給を使って再びヨーロッパを東欧中心に周遊していたこともあり、カウンター越しにお客さんと話をするきっかけを掴みやすかった。

ベルギービールを飲みに来ているお客さんの大半は異国の文化に興味がある人ばかりなので、そういったテーマなどで話を始めれば、大抵の方とは会話を続けることができた。

バーのカウンターに立って、お客さんと向き合っていると、とてもワクワクした。

このカウンターを挟めば、世代も地位も関係がなくなる。上場企業の社長さんもいれば、ファッションデザイナーもいれば、テレビドラマ化されているぐらい有名な小説家も来る。

オリコン入りするアーティストも来れば、お笑い番組で活躍している芸能人も来る。そして何よりビールという飲み物に特有の、カジュアルな雰囲気が、お互いの気持をリラックスさせ、つい商売を忘れて朝まで話し込むこともある。

会社員時代に、毎日机に向かって電話をかけ続け、その繰り返しの作業で終わってしまう無機質な生活が、一気にお互いの人生を重ね合わせる人間味のある環境へと劇的に変化した。確かに給料はいくぶん減ったが、精神衛生上そっちの方が私にとって好都合だった。

そしてアルバイトを始めて約4ヶ月で店長に抜擢され、マネージャーとしてお店に立つことになった。

フードメニューの構成をシェフと議論し、アルバイトの面接も自分で全て行って採用を決めた。80種類以上あるビールのメニューブックを自分でデザインし直した。料理の写真を自分で全て撮影し、それを毎日Facebookで告知した。毎日の売上日報とにらみ合いながら、本社に提出する目標数値を設定した。人件費のコントロール、食材のロス率など、見直すことができるものは見直した。

勤務時間は16時から夜中の2時頃まで。普通のサラリーマンと真逆の生活スタイルだったが、お客さんにもスタッフにも恵まれ、とても充実した日々を送っていた。

売上は正直芳しくなかったけれど、自分の取り組みは他店にもいい影響を及ぼしているという意味で、自分の存在意義を感じることができた。

もう、サラリーマン時代に感じたあの虚しさは、どこか遠くに消え去っていた。自分を取り戻したという自覚を手にすることができた。

…しかし、そんなに簡単に完璧な生活が手に入ることはない。

店長として2年目の最初に、私は学生時代の最後の頃から付き合っていた彼女と結婚をした。結婚してしばらくすると、次第に今の仕事を続けて30代を迎えることに疑問が湧き始めた。

確かに、環境には恵まれているし、仕事は楽しい。でも、40歳になるまでおそらく給料は横ばいだし、基本的にずっとこのお店で働き続けなければならない。休みも少ないし、家族とゆっくり過ごす時間もない。といった感じで、楽しさの裏側に潜んでいた現実が姿を見せ始めたのである。

そして通常営業の他に、色々なイベントが重なり、17連勤を終えた後、「もうそろそろ自分は次のステージにいかないといけない」というはっきりとした考えが芽生えた。たしかに楽しく仕事はできているが、これをいくら続けても未来が見えないような気がしたのだ。新しいお客さんと出会って、それまで知らなかった世界を聞くのは楽しい。

でも、自分はずっと同じ場所で営業して、同じ景色を見ている。お客さんが毎年のように旅行に出かけるのに、自分はお金も時間もなくて行くことができない。私はある時を境に、そのギャップに苦しみ始めることになった。

「もっともっと、自分の可能性を拡げたい。このまま自分に満足して終わりたくない」

物事には必ず新陳代謝が必要だ。いつまでも同じじゃいられないし、同じままではいけない。常に新しい風を自分の中に吹かせるからこそ、新しい世界を切り開くことができるのだ。

人生をもっと楽しみたいと思うのであれば、自分を可愛がり過ぎず、守ろうとしないことが大切なのだ。

とは言っても、自分はもう固定された組織に戻りたくないし、かといって同じように小さな会社で働く選択肢もなかった。

自分という人間を100%ぶつけることができる仕事に就くこと。それはまさしく、自分でビジネスを始めることだった。

「自分でビジネスを始めて、起業しよう」

そうして2013年の秋頃から、私は働きながら自分自身のビジネスを模索するようになる。自分の力で稼いで、自分の人生を自分でコントロールできるようになりたい。本気でそう思ったのである。

2013年〜 「自分で自分の人生を生きる道を模索。」

まず、自分のスキルの棚卸しをしてみると、好きな物事に「デザイン」という分野があった。お店のメニューブックをデザインしたり、本社とは違う店舗のWebページをWordPressで作ったり、自分で写真を撮って美味しく見えるように加工することが好きだった。だからまずそれを突き詰めて、お金にできる実力を身につけようと思い立った。

他にもお金を稼ぐ方法はたくさんあるけれど、結局人間というのは好きなことしか続けれないし、自分自身も楽しくないことを追求できない性格だとわかっていた。

そして本業の合間にAdobeのソフトをひと通り揃え、デザインに関する有名な本を買い漁った。

また、デザインをビジネスという局面で活かすための理論や実践例を集めるために、ネット集客に関する数多くの教材を手に入れたり、実際に取り組んでいる人のセミナーに参加した。

勉強を続けるうちに、Webデザインの中には「ランディングページ(通称:LP)」というものがあることがわかった

ホームページとは異なり、集客や成約という結果に特化したページのことだ。商品やサービスの成約率を高めたり、メールマガジンの登録率を高めたり、またセミナーや企画の募集の参加率を高めるためにランディングページというものが使われていた。

ランディングページ製作に必要な技術というのは、きちんとしたデザイン理論を元に、用意された素材を適切に組み合わせて、そこに的確なコピーライティングを持ち込むことだ。

ホームページと異なり、第一印象で全てが決まってしまうので、究極的には作る人のセンス (=今まで何を見てきたか)が問われることが多い。今まで数多くの国や地域を訪れて写真を撮り続け、カウンター越しに様々な世界の人々と会話をしてきた自分にとって、クライアントの求めるランディングページを作ることは、とても楽しいことだった。私にとっては「こんな味のビールが飲みたい」という要望に応えることとほぼ同じ作業だったからだ。

私はまずこのランディングページをきちんと作れる技術を身につけることに専念した。そしてFacebookを通じて知り合った方のメルマガLPを無料で製作した。

キャッチコピーなども全て自分が担当したこともあり、クライアントの方にはものすごく喜んでもらえた。組織が関与せずに、自分の力だけで相手に何かの感謝をさせることに、私はひとつの打開点を見出すことに成功した。こういう魂を込めた経験を積み重ねれば、自ずと道は拓けることは過去の経験から身体で理解していた。

最初は副業だったので、深夜2時に最後のお客さんが帰ると、閉店作業をしてからそのままバーのカウンターに座って朝までランディングページを作り続けた。

たとえ無料だとしても、とにかく自分の仕事を求めている人がいることが幸せだった。自分のやっていることが、お金だけではない価値を生み出している実感があった。

そんな日々を数ヶ月ほど過ごしていると、やがて人生の転機が訪れた。

「◯◯さんの作品を見たのですが、予算はいくらぐらいで製作していますか?」

という問い合わせがある起業家の方から来たのである。まさに、自分の仕事がお金を生みだす可能性があると確信した瞬間である

正直、これはいけるかもと感じた。多少のお金が通帳に振り込まれ始めたこともあり、もうこれであれば会社を辞めてしまって集中した方がいいと思った。フリーランスとして生きることに恐怖や不安というものはあったが、ダメならまたこの場所に戻ってくればいいと思った。決断を保留して、後で後悔することの方がよっぽど怖かった。

デザインの仕事で初報酬を受けた数日後、私は本社に訪れて本部長に退職願を提出した。本部長も私の考えを素直に受け入れてくれて、2ヶ月後に退職することが決まった。

次にデザインの仕事をするというのは、もちろん言わなかった。飲食業の店長がいきなりWebデザイナーになるというのは、気軽に話しても理解してもらえないと思っていたし、説明しようにもLPやらネット集客がどうとか、一からすることは到底不可能だった。

そして、店長としてお店に立つ最終日を迎え、その日は自分が店長になってから最高の売上を叩き出した。

オープンから深夜3時までずっと満員状態が続き、最後に自分の顔を見に来てくれたお客さんでいっぱいだった。最後だからと地元の札幌から両親がサプライズで来店したり、高校時代の同級生がたくさんのプレゼントを持って「お疲れ様」と伝えに来てくれた。とても大きな会社の社長さんが「がんばって」とだけ言い残して餞別を置いていったり、他店のスタッフも営業が終わるとお店に駆けつけてくれた。

私は毎日カウンターに立ちながら、こんなにも楽しく頼もしいスタッフに囲まれて、こんなにも沢山のお客さんと出会ったきたのかと改めて猛烈に感動した。

至福とか生きる意味とかそういった人生に関する問題が一気に理解できたような気がした。自分に会いに来てくれるお客さんが、こんなに目の前に沢山いる。それだけで胸が熱くなり、何度も泣きそうになった。

ただ、私は同時にとても寂しい気持ちにもなった。「このお店でずっと働くことはできない」とはっきりと理解することができたからだ。

この環境にい続ける限り、自分はこの先成長することはできないし、きっと優しいお客さんに最後は甘えてしまうことになるだろう。次第に温まっていく水に気がつかず、熱湯になって死んでしまう茹でガエルの話があるが、まさにあれだ。非常に残念で寂しいことではあるが、物事には新陳代謝が必要なのである。

2014年〜現在 「これが私の生きる道。」

こうしてフリーランスとして起業して今に至るというのが、片岡がWebデザイナー&マーケターとして活動するに至った道筋である。

農産物流通会社のサラリーマンから、ベルギービールバーの店長、そして現在はWebデザイナーというある人から見れば実に不思議で、筋の通っていない人生に感じてしまうだろう。「飽きっぽい性格だな。もっと腰を据えてひとつのことにじっくりと取り組めよ」と誰かに言われるかもしれない。

でも、私という人間の根底には、あるひとつの行動原理が存在する。

「お客さんと共に、魂を震わせる瞬間をできる限り多く生みだす」

この目的を果たすためには、自分も常に成長し続けなければならないし、表現できる知識やスキルを磨かなければならない。

その瞬間を死ぬまで味わいたいのであれば、決して立ち止まって自分に満足している暇はないのである。職業はあくまでも形式である。何をやっているかではなく、何を考えてやっているかが重要なのである。

そんなわけで、今日もコツコツと机に向かって、私は製作を続けている。

おわりに

長くなりましたが、今までの人生を少し振り返ってみました。

これからの時代はあらゆる専門性を自分の中に抱え込んでもいい時代です。

逆に、ひとつの専門だけににこだわることなく、より多くの領域に向上心と好奇心を持って踏み込んでいく勇気が重視されるようになってくる。要するに、単純にデザインだけを学んだきたデザイナーと比べると、世界を旅したりサラリーマンや店長を経験したデザイナーはまた違った価値を生み出せる。きっと何かクライアントが世界を変えるためのきっかけとして、価値のあるデザインを提供できる。そう熱い気持ちを持って、毎日仕事に取り組んできたいと思っています。

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